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大空に舞い上がる感動を共に感じたい~隠明寺凧保存会~

 「凧揚げ」と言えば昔の遊びとかお正月の風物詩と考える方も多いと思いますが、今もなお根強い愛好家たちが全国各地に存在します。そして新庄にも伝統和凧を後世に伝えようと活動している隠明寺凧保存会(読み:おんみょうじだこほぞんかい)があります。

 現在、保存会の正会員は10名程度ですが、活動を応援する賛助会員や全国各地の凧保存の活動団体とも連携をとり、今年度で第10回目を数える「新庄凧フェスティバル」の運営にあたっています。例年11月中旬に開催していましたが、「今年は6月開催で雪の心配をすることなく準備を進められるので、いつもより楽しめそうだ。」と開催を待ち遠しそうに語るのは隠明寺凧保存会の事務局長 佐々木新一郎さんです。隠明寺凧の保存活動を牽引し凧フェス開催の立役者で、凧作りの指導者です。

 しかし、最近では保存会の活動のおかげで「隠明寺凧」の名を耳にすることも増えましたが、市民でも単にお土産用の民芸品という認識だった隠明寺凧。地元ではなぜ知られていないの?隠明寺凧の魅力は?凧揚げの楽しみ方など、伝統文化を次の世代に伝えようという活動のきっかけも交え、新庄の凧名人佐々木さんにお話を聞きました。

知ってる?隠明寺凧のいろいろ

●隠明寺凧の始まり

 明治10年(1877)ごろ、旧新庄藩士である隠明寺勇象(おんみょうじゆうぞう)氏が、父からもらった江戸凧を思い出して作ったのが始まりと言われています。当時、士族の内職として版画絵の凧を作り広めたといいますが、美しい錦絵にはじまり、「蔦(つた)」の字をモダンに表現したデザインまで、計32種類の絵柄が確認されています。隠明寺家に伝わる版木12点は大変貴重なもので、山形県有形民俗文化財に指定されています。

 勇象の息子である常太郎が凧作りを受け継いだものの、その後作られなくなり、昭和38(1963)年に常太郎の息子 憲夫氏が勇象の彫った版木を発見するまで、「幻の凧」になってしまっていました。

 憲夫氏は昭和43(1968)年に隠明寺凧保存会を結成し、日本画家に彩色の方法を教わるなどして完全に忘れ去られてしまっていた隠明寺凧を復活させたということです。

●新庄に残る「川口般若」伝説

~昔、新庄藩に川口某という侍がおり、息子に嫁を迎え幸せな日々を送っていた。ところが姑と嫁の仲が悪くなり、嫁は姑があまりに辛くあたる為、日に日に痩せ衰え、赤子を生むとすぐにこの世を去ってしまった。花のように美しかった嫁も、生まれたばかりの赤子を残して死んだ無念は計り知れないものであっただろう、いつしか怨霊となって姑の前に現れるようになった。その姿は髪をふり乱した恐ろしい形相のまさに鬼女であったという。姑は自分の罪の深さを悔いて、一心に般若心経を唱えるようになった。それにより、鬼女の亡霊は現れなくなり、残された赤子は姑の手で大切に愛情を持って育てられた後、立派な侍に成長したという。~

 この般若伝説をモチーフにした絵柄が、後に隠明寺凧の代名詞ともなる人気の絵柄になろうとは。勇象にどんな考えがあって般若を題材にしたのか今となっては知る由もないですが、隠明寺凧の絵柄は子どもが憧れるような伝説の英雄(桃太郎、金太郎、牛若丸、弁慶など)であったり、めでたい絵柄(日之出に鶴、お多福と松茸、福助など)となっています。凧は息子 常太郎への深い愛情と健やかな成長を願って作られたものだったのではないでしょうか?また、「蔦」の字も、ツタの繁殖力から一族繁栄の願いを込めて選んだものと考えることができます。この般若も、「我が子を思う母の愛=怨念・鬼女」というメッセージが見え隠れしてなりません。

 この土地の者はこうした伝説を信じていたからこそ、般若凧を買い求め大切にしたのかもしれませんね。

●隠明寺凧が封印された理由

 勇象の息子である常太郎氏が凧作りを受け継いたものの、明治後期は急激に電線が増え出し、近所で気軽に凧揚げができにくい環境に変化していった時期だと言われています。しょっちゅう電線に凧が引っかかってしまい、これが原因で一帯が停電を余儀なくされる状況に、「これは良くない」という風潮が出始めました。常太郎氏はそれを気にやんで凧づくりを封印したと言われています。

隠明寺凧の魅力は?

 隠明寺凧保存会事務局長の佐々木さんに詳しく解説頂きました。

Q隠明寺凧で有名な絵柄「般若」の他は、どんな絵柄がありますか?

 「坂田金時(金太郎)」・「牛若丸」・「桃太郎」などの美しい錦絵もあれば、「蔦」の文字をデザインしたシンプルなものまで絵柄は様々。32種類の絵柄が確認されているけれど、般若が人気なのは、他の和凧でもこうしたモチーフを絵にするのは珍しく、やはりインパクトがあるからだろうね。あとは、凧を揚げた時に絵柄が細かいと判別しにくいので、般若は色味がシンプルで、黒髪をふり乱した鬼女の口は真っ赤に彩色されているから、そのコントラストは空に揚がった時にとても迫力があるよ。

Q隠明寺凧の特徴は他にどんなところですか?

 絵柄の魅力だけではなく、凧としての機能に注目し隠明寺凧を見てみると「揚がりやすい凧」だということが何と言っても素晴らしい。長沢和紙を張った全体はかなり丈夫で、強い風にも破れない強度を持っている。さらに、小柄でありながら骨組みは「障子張り」という組み方を用いているため非常に頑丈な作りで、見た目も機能も良い、とてもバランスのとれた凧だということが分かるよ。

Q隠明寺凧は凧愛好家の間でも有名だそうですが?

 憲夫氏が隠明寺凧保存会を作ったのと同時期に、「日本の凧の会」という団体ができていて、憲夫氏はそことも繋がりがあったようなんだけど、この日本の凧の会で、『日本一高いところで凧上げをしよう!』ということになって富士山での凧揚げ大会が行われたらしいんだ。この時、他の凧をさしおいて強風の中で隠明寺凧が唯一揚がったという話はとても有名な話。凧としてとても優秀だということが証明されたわけだ。それで一気に隠明寺凧の名が愛好家の間に広まったんだと思うよ。しかも、当時なかなか手に入らない「幻の凧」になっていただろうから、希少価値は高かっただろうね。

Q作り方の工程を教えてください。

 まず、隠明寺家所蔵の版木は大変貴重なものなので、保存の観点からも持ち出して使うというのは簡単にはできない。そこで、数年前から隠明寺家や新庄市に協力してもらい、新庄ふるさと歴史センターや新庄市民プラザに保管されている資料や記録を元に版木を復元したことで、活動にも使えるようになってきた。

 凧作りの前段階としてまず、この版木の複製を彫ることが必要なんだけど、繰り返し使うために柔らかい木でなく硬い木(桜や樫など)を選ぶので、彫るのが非常に大変。彫刻刀を何度も研ぎながら彫っていくんだ。現在複製が進んだ絵柄は32種類中7点ほど。

 凧作りの工程は、版木から和紙に絵を移し彩色する。次に竹を削って骨を10本作る。縦5本・横5本で骨組みをつくる。糸を張って調整する、という大まかな流れ。

Q隠明寺凧を作る際の一番のポイントは?

 良く揚がる凧を作るためには、左右のバランスが完全であるということが絶対条件。縦5本・横5本の骨を、それぞれ中心の骨を基準にして外側の2本と間の2本を対になるように削るのがポイント。バランスが大事だからここは慎重にやらないといけない。竹を削るときには、それぞれをしならせてみて、きれいな弧を描くように均等に削ることも重要。そうした細やかな配慮が全体の良し悪しを決めていくんだ。何度も作って揚げてみて、『よし、今度は・・・』というのを何回も繰り返していくことで上手になるのかな。

 あとは、絵柄に彩色する際には、深く塗ること。印刷の場合、表は色がついているけど裏は真っ白ということが多いけど、これと同じで、塗りが甘いと凧を揚げた時にきれいに色が出ない(白っぽく見える)。塗りが深いと、光に透けて色が鮮やかに見えるので、これもポイントかな。

Q凧作り教室を市内の子どもたちに行っているようですが?

 保存会の活動は、「文化財の保護」という目的もあるけれど、復元した版木を使って凧作り教室をやれば、自分が作ったものを実際に揚げてみたいと思うだろうし、揚げて楽しかったらまた作ってみようと思うもの。凧作り教室は作り方を教えるだけでなく、「凧揚げという伝統文化までを含めた形で継承していきたい」という想いで取り組んでいる。しかも、会のメンバーたちも、自分が作るのはもちろんのこと、人に教えることで知識や技術が定着していくし、何度も繰り返し作ることでだんだん完成度もあがっていくからね。

市内だと小学校3年の総合学習で、その歴史や作り方を学習したり、高校にも地元の伝統文化を学ぶ授業で指導に行っている。本当に何と言っても、自分で作った凧が揚がる瞬間を味わってほしいね。あの爽快感は子どもでも大人でも一度味わったら癖になると思うよ。そういう体験を老若男女みんなで共有したいと思って「凧フェス」を開催しているんだ。

新庄と大凧の関係は?

 新庄では平成11年の新庄市市制施行50周年の記念の時に、「凧フェスティバルin新庄」が開催され、初めて全国規模の凧フェスが実現したのだそうです。全国から参加者が集まり約150人ものエントリーがあったということです。このフェスに向けて、目玉企画として24畳の大凧(縦約7.2m×横約5.4m)を作ったのだそうです。絵柄は隠明寺凧の代名詞ともいわれる「般若」。大凧制作には白根大凧合戦で知られる新潟市白根の凧保存会に指導を仰ぎました。

 ところが、フェス当日は大雨にみまわれ、残念ながら大凧を揚げることはできませんでした。「せっかくの大凧を・・・」という無念はありましたが、平成11年12月に山形新幹線新庄延伸に伴って開業した最上広域交流センターゆめりあに展示されることが決まりました。こうして、大般若が行き交う人々を見下ろすことになったというわけです。

 その後、平成21年に市制60周年を記念して凧フェスティバルを復活させ、再び24畳の大凧を制作。2代目となる大凧は、縁起物である福助を絵柄に選びました。市内の廃校となった小学校体育館を借り、本格的に大凧制作に臨んだ保存会のメンバーの元に、またもや白根から6人もの指導者が駆けつけてくれたというのですから、絆の深さがうかがえます。地域は違えども、伝統和凧の保存や凧文化の継承を目的に活動している気持ちは繋がっているのでしょうね。伝統の凧文化を地域に根付かせようと、毎年凧フェスを開催することとなりました。

凧フェス当日の様子はコチラをご覧ください。

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