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こだわり山車は「見せる」「魅せる」まちの誇り~万場町若連~

 平成28年12月、「新庄まつり」が全国33の山・鉾・屋台行事の1つとしてユネスコ無形文化遺産に登録されました。平成21年3月に国重要無形民俗文化財に指定されていたこともあり、新庄の宝が日本の宝となり、さらに世界の宝として認められました。国内外から注目が集まり期待が寄せられることは新庄市民にとってとても嬉しく誇らしいことですね。伝統であり誇りでもある「新庄まつり」に寄せる市民の熱い想いは計り知れませんが、未来に引き継ぐ使命を背負い、この夏も情熱を燃やして8月24日・25日・26日の3日間に臨みます。

 新庄まつりの魅力は一つではありません。夜の幻想的な光をまとった山車と囃子の競演が見る者を惹きつける「宵まつり」。神輿渡御行列(みこしとぎょぎょうれつ)が新庄城址(最上公園)を出発し、続く山車パレードが市内を巡行する様は現代に蘇る歴史絵巻ともいえる壮大な「本まつり」。県指定無形民俗文化財でもある萩野・仁田山鹿子踊(はぎの・にたやまししおどり)の奉納や3日間のフィナーレとしてまちの中心部で飾り山車が楽しめる「後まつり」。どこを切り取っても、新庄が一年で一番熱く輝く3日間です。この魅力の理由を、パワーの源を、熱さの内側を、「新庄まつり」をまだ知らないという方々にお届けします。

万場町若連の歴史と山車作り

 新庄城址である最上公園から北西に位置する万場町は、宿場町だった新庄の中でも商店の数が多く、万(よろず)の店がある場所ということでこの町名がついたと言われていますが、その由来の通り、実に様々な面白いお店が立ち並ぶ通りです。そのため、古くから山車作りを行ってきた若連でもあります。安永5年(1776年)、万場町若連が「風流 神功皇后」の山車でまつりに参加していたという記録が残っています。上万場町若連と横町・下万場町若連として参加していた期間も長く、新庄まつりの発展を長い間支えてきた老舗若連と言っても過言ではありません。平成22度からは三町内が合併し、渾身の山車で新庄まつりを盛り上げています。

新庄まつりは8月の下旬と言っても、例年蒸し暑さと照りつける太陽で、山車パレードの引き手も観客も暑さには一苦労するのですが、平成28年度の20台の山車の中でも一際目を引いたのが、万場町若連の「風流 雪女」でした。真っ白な雪が積もる様子は他の山車とは全く異なり、山車の半分近くが雪景色というこれまでの新庄まつりではあまり見たことのない構図が描かれました。また雪の質感を表現するため材料をとても工夫したのだとか。暑い新庄の夏に見事なまでに再現された真冬、実は万場町若連の皆さんが連日汗だくになって作ったことを一瞬忘れてしまうような、そんな雪女の冷気が感じられる素晴らしい山車でした。

山車ができるまでの流れ

1.題材選定

 何を題材に選ぶかは非常に重要です。昔から歌舞伎の名場面をモチーフにする若連は多いのですが、昔話や伝説からヒントを得て山車制作をする若連もあります。現在の新庄まつりでは歌舞伎部門と物語部門の2部門で山車の順位を決める審査が行われています。それぞれの部門で最優秀になった山車2台が新庄ふるさと歴史センターのお祭りホールに1年間展示され、特別賞がゆめりあのエントランスホールに展示されます。毎年、12月~1月頃には各若連とも次の山車の題材を選定し、他の町内と内容がかぶらないように、いくつか候補を考えているのだそうです。

2.下絵・構図の決定、骨組み作り

 下絵を描いて全体の人形の配置や館・動物・木々の位置を大まかに決めたり、山車のミニチュアを作る若連もあります。人形が何体配置されるか、そのバランス、龍・蛇・虎などの動物や山・滝・紅葉・桜などをどのようの見せるか、実際の山車で作っていく前にアイディアを練っていきます。

 新庄まつりの山車独特の躍動感あふれる登場人物の配置は、こうした前段階あっての賜なのですね。そして、こうした下絵などに基づいて、角材などで骨組みを作っていきます。

3.紙貼り

山車の山も岩も滝もほとんどが段ボールやクラフト紙を貼って作られています。微妙な凹凸もこの紙貼りによって決まります。質感を出すために障子紙や和紙を表面に貼ることもあるそうです。

4.大道具・小道具作り

 題材によって様々な異なるパーツを分担して作っていきます。動物など観衆の目を引く部分の制作は気合が入ります。大物は発泡材が使用されることが多くなりましたが、本物らしくみせるために材料も入念に選びながら進められます。また館や塔などは町内ごとにこだわりを持って作っていきます。海の荒波を表現するためのしぶきや人形に付属する刀・兜・鎧などの小道具も工夫を凝らして作られます。

5.色上げ

 木や紙、発砲材などに色を入れていきます。雨に降られたりする場合もあるため、色落ちしないように塗料も工夫されています。筆・刷毛のほかにエアーブラシなども使われているようです。

6.人形作り

 着物から出る頭部分と手足は新庄まつりの人形師である野川家(二代目野川陽山・二代目野川北山)が手掛けたものになります。胴体の部分は角材を芯にしてワラで肉付けし、サラシを巻きます。手足は番線を使い動きが出せるように作ります。人物に衣装を着せて人形が完成します。

7.飾りつけ・照明つけ

 大道具・人形・小物が山車上で一体となり、いよいよ仕上げになります。桜・松・紅葉・山・滝・波など、全体の飾り付けのために金銀の短冊を木々に飾ります。また、桜の花付けなどは事前に町内の子どもたちが手伝うことが多く、小さい頃からこうした関わりの中で、郷土のまつりに対する誇りや責任感、大人たちへの尊敬と憧れの念を育んでいきます。宵まつりの際の幻想的なライティングも、入念な調整のもと、夜作業で取り付けられます。

8.完成

山車の題目・登場人物の紹介板・町内の幕・囃子若連の太鼓などを取り付ければ、誰もが知る新庄まつりの山車の完成です。制作期間はおよそ2か月。まつり前1週間は、どの町内も昼夜作業が行われ、少しでも納得のいくものにしようと死力を尽くします。

こだわりと団結力

 若連を率いる人は、各若連で呼び名は異なりますが、親方・会長などと呼ばれ、町内の若勢の先頭に立ち山車制作の指揮をとる役目を果たします。他の若連との調整や制作の方向性を決める立場で、中には山車の題材の決定や、全体の構図、材料や組み方などに特別なこだわりを見せる人もいるとのこと。時間や予算も限られている中で、こだわりを優先するのか否かは、日頃からの信頼関係に左右されるのではないでしょうか。

 260年以上続いてきた新庄まつりは、戊辰戦争で焼け野原になったあとも、第2次世界大戦時にも、「途切れさせずに続けたい」という願いが強く、廃れずにこれまで繋がってきました。それだけの想いが集まった時、それを一つに纏めるのは容易なことではありません。上に立つ人が冷静な目で全体を見て舵をとる一方で、一番に熱い想いと信念を持っていなければ、全員を纏め上げ分担して山車を完成させることはできません。これまでの制作工程で幾多のドラマが繰り広げられていることでしょうが、その中からほんの少しだけ制作エピソードをお聞かせいただきました。

Q平成29年度の山車「風流 鬼若丸鯉退治(おにわかまる こいたいじ)」はどのようにして選んだのですか?

「今年の題材は、昨年のまつりが終わった直後から、会長が『これをやりたい』っていう構想があって、その熱意が伝わってきていたので満場一致で決まったという感じ。他の町内とかぶっていないかどうかは毎年あけてみないと分からないので。でも無事にこの題目でできることになって、みんな『よし、行こう!』ってなったよね。」

今年会長を務める青山さんは、絵コンテを書いて自らの頭にある構図を若連のみんなに伝えたのだそうです。

「今年の会長は絵がうまかったからイメージが伝わりやすかったけど、絵が苦手な会長だった時は何が何だか伝わらず、下絵や絵コンテの役目を果たしてないっていう年もありましたよ(笑)。でも結局は、ここからスタートして、全員で共有し完成を目指すので、意思疎通はとても大事。毎回作業の後は御苦労ぶりをみんなで労って酒を酌み交わしながら、『ここはこうした方がいい』とか『こっちの作業は人手が足りない』とか、喧々諤々やってるって感じだね。」

Q今年の山車の見どころをあげるとしたら?

「鯉と水しぶきの躍動感。ウロコを一つ一つ作っているところや、巨大発泡材を切り出して作った鯉の頭は見応えがあると思うよ。あとは大量の波・波・波。量が多いだけに地味に大変な作業だったし、初めての材料に試行錯誤したので、それがどういうふうに仕上がっているかをぜひ見ていただきたい。あとは毎年、館作りは気合が入っていて、材料調達の際には『家でも建てるのか?』と言われるほどの太い角材を使ったりして、年々パワーアップしているので、その完成度も見ていただきたいところの1つだな。」

Q万場町若連のみなさんにとって『山車作り』とは何でしょう?

「『誇り』という言葉に尽きると思うよ。自分たちが小さい時から当たり前のように繰り返されて、自分の親や周囲の大人が連日大変な作業を経て山車を完成させてきた。そうやってまつりに『新庄人』としてのプライドをかけて臨んできたから、ただ何となく見てきただけのはずなのに、自分たちにもそういう『想い』や『熱意』、『心意気』、『意地』みたいなものが自然と受け継がれてきたっていうことなのかな。それと、まつりが『新庄を一つにしてくれる』というのもある。市道・県道・国道を交通規制して、行政や警察・関係機関はもちろんのこと、企業も商店も市民も、みんなが新庄まつりのおかげで同じ方向を向けるのは、どこのまつりと比べても負けないほどの『団結力・繋がり』だと思うね。それぞれの町内が山車作りで競いあってはいても、『まつりの継承』、『新庄の発展・発信』という同じ目的を持った同志であり繋がっていて、結局は『郷土の誇りを受け継いでいきたい』っていう、そこに尽きると思うね。」

「『まつり馬鹿』っていう褒め言葉がある(笑)。どんなに大変でも、まつりのこととなると目の色が変わって真剣になる人のことを良い意味でそう言うけど、若連の連中はみんなまつり馬鹿、新庄中がまつり馬鹿の集まりなのかもしれないな(笑)。盆に帰らずともまつりには帰省するという出身者も多いし、その中には万場町出身の漫画家 冨樫義博もいる。そういうふうに新庄まつりを物凄く楽しみにしてくれている人がいるのに、『山車作り大変だぁ』なんて言ってらんないべぇ!」

 新庄出身の漫画家 冨樫氏は平成26年度の新庄まつり山車「風流 義経千本桜  蔵王堂花矢倉の場」を元にサイン入りカットを描いてくださったのだそうです。原物は万場町公民館に飾られ、若連のみなさんを今も励まし続けてくださっているそうです。

Q毎年のことですが、新庄まつり3日間をどんな意気込みで迎えますか?

「山車が完成したら我々のまつりはほぼ終わりに近いんですよ。町内の人々に我々が作ったその年の山車を見せて喜んでもらって、子どもたちが山車を引いて心の底からまつりを楽しむ、観衆が20台の山車パレード見て魅せられてくれれば、それで我々は目的をほぼ達成してるんですから、まつりが無事に終われば本望ですよ。」

「2か月間、連日夜集まって作業して、最後の1週間はラストスパートで山車完成まで全力疾走ですから、8月24日を迎える頃にはぐったりです、当日元気なのは子どもだけかも(苦笑)。でも期間中は引き手の子どもたちや花もらいの子たち、囃子若連の方々もいますから、もちろん気は抜けませんけど。とにかく最後まで安全に運行できて無事に終わることができれば、連日頑張った甲斐があります。その達成感と充実感、若連の仲間たちとの一体感は一度味わうとやめられなくなります(笑)。」

「『花もらい』といえば、当たり前なのですが山車制作には費用がかかりますから、精魂込めて作った山車を、市内全域を回ってたくさんの人に見てもらい、『御花』や『御祝儀』という形で応援いただくという慣習なんです。そういう意味で言えば、どこの若連も、それぞれの町内だけでなく新庄市内全体が応援団(スポンサー)というわけですよ。これが新庄まつりのユネスコ登録を支える最たるものだと思いますよ。」

Q今年から「山車制作体験」で外部の方を受入れたのはなぜですか?

「とにかく、『新庄まつりが広がってほしい』という願いが根幹にあって、だから希望する人を受入れるのは良いことだと思って。興味を持って集まってくれる方々を万場町若連は歓迎しますし、制作に少しでも関わってくれたことで、新庄まつりを今度は違った角度で楽しめるんじゃないかと思っている。それと、離れていてもこちらの状況をお伝えできるように数年前からブログを開設していて、一年を通じて情報発信しているので読んでもらえれば、我々が和気あいあいとやっているのが分かりますよ。」

 制作体験の参加者には、特製の木札を名入れでプレゼントしてくださいました。これだけのもてなしをしてくれる万場町若連のブログには、笑いあり、真面目あり、有益な情報ありで、見応え十分です。どうぞご覧ください。

市民が主役の新庄まつり

262年目を迎える新庄まつりの起源は、江戸中期宝暦5年(1755年)の大飢饉で打ちひしがれた領民を鼓舞し、領内を活気づかせようと翌年、戸沢家5代藩主正諶(まさのぶ)公が五穀豊穣祈願のために始めた戸沢家氏神の天満宮「新祭」であったと言われています。天満宮の神輿が領内を巡行するところは現在の神輿渡御行列、領民に趣向を凝らした飾り物を作らせ、それらを練り歩かせたのが山車の始まりと言われています。

次第に領民たちは競って飾り物を作るようになり、飾り物の人形には華やかな着物を、また、町ごとに揃いの衣装で加わるようになったと言われています。城下には露店が立ち並び近隣から見物客が集まるようになるなど徐々に賑わいの場になっていきました。一時期、「新庄やたいまつり」とか「新庄山車まつり」という名称がついたこともあったのだとか。現在は山車の他にもお囃子や神輿渡御行列、鹿子踊など多くの楽しみ方がありますが、何と言っても「山車(やたい)」が祭りの花形です。古い文献に、まつりが始まって約20年が経過した安永5年(1776年)には14台もの山車が出ていたことが記されており、その半数以上が歌舞伎を題材にしたものだったという記録が残っています。この頃にはすでに現代の新庄まつりのスタイルが出来上がっていて、それぞれの町内がこのまつりによって活気づいていたことがうかがえます。

 藩主が命じて始まった「領民のためのまつり」が原点ですから、あくまでも主役は領民=市民です。「若連(わかれん)」という町内ごとに結成される組織は元々、まつりの飾り物を作る目的で町内の若者たちが商売や立場の違いも越えて集まったものでした。それぞれ知恵を出し合いながら、何代にも渡って引き継がれてきた組織です。現在でも題材選びから、材料や仕掛けの工夫など、競いあい高めあう存在として20の若連が凌ぎを削っています。先人から受け継いできた技を最大限活かしながら、現代においても観客を魅了し圧倒し続ける山車制作の裏には、並々ならぬこだわりと新庄人の意地が感じられます。「市民が主役」だからこそ、飢饉を乗り越え、戦火を乗り越え、人々に夢や希望を与え続けてきたのではないでしょうか。

 遠くから聞こえるお囃子の音。少しずつ近づいてくるたびに感じるあの高揚感や期待感は、ワクワクドキドキという言葉では到底表現しきれません。毎日カウントダウンしながら町衆が全力でつくり上げた山車の素晴らしさも、ぜひ新庄の地でご堪能ください。きっと魔法にかけられること間違いなしです!

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